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赤門 [散歩]

 いわずと知れた東大の門。東大の別名にもなっている象徴的な門です。もとは、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門です。文政10年(1827年)に第十二代藩主前田斉泰(前田家としては十三代とも)が第十一代将軍徳川家斉(別名オットセイ将軍)の推定五十三人!(男子二十六人、女子二十七人)いた子の内、第二十一女にあたる溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室として迎える際に造られたそうです。
 御守殿門てなに? と調べてみました。江戸時代、大名の官位が三位以上であること、その妻の実家が将軍家であること、このふたつの条件が揃うと、その妻の居所を御守殿と称します。で、その御守殿へ表通りから出入りする朱塗りの門のことを御成門と言うそうです。表門が黒門なので、こっちは赤門。嫁さんが将軍家からきたので、前田家は上屋敷に赤門を新築したわけですね! 格上の家から嫁さん貰うと大変だ。
 御守殿門は焼失したら再建を許されない慣習があるとか。おかげで、この東大の赤門が当時の原型を残す唯一の現存物だそうで、これは貴重。重要文化財なのも納得。
 東大の本郷キャンパスの敷地はかつて加賀藩前田家の上屋敷だったところです。広い東大がほぼ屋敷だったわけで、どんだけ広いんだか。
 様式は薬医門で切妻造。左右に唐破風造の番所。屋根上部には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢があります。なぜ薬医門というのかというといくつかの説が。矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきた説と、医者の門だからという説。一般的には、前方(外側)に二本、後方(内側)に二本の四本の柱で屋根を支える構造だそうです。屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間ではなく、やや前方に位置します。前方二本の柱が本柱となっており、後方のものより太く、加重を多く支える構造になります。今回訪ねた際には細かいところまで確認できなかったので、次回訪問のときには、この赤門をよくよく観察しようと決意。
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